防空壕と裸電球の傘

終戦の昭和20年1945年8月、私は小学2年生だった。病弱で学校には病欠の日が多かったが、通信簿を見るとこの8月は8日しか学校が開かなかった。北海道静内町の町内放送は空襲警報のサイレンが鳴る。家の中の裸電球には大きな傘をかぶせてあり、二重の黒い画用紙で出来ていて、穴があいていた。空襲警報が鳴ると二重の画用紙をすり動かし穴をふさぐ。明りを外から見られないようにし、敵機の射撃対象から逃れるためだった。
黒く光った板の間から土間に降り、裏玄関から井戸の大きなつるべをよけて、防風林の板壁を抜けて、大きな木立の中にある「防空壕」の入り口へと駆ける。高さ1mほどの入り口から中に入る。階段を3段ほどおり、4畳ほどのスペースにござが敷かれた中でランプのあかりと共に、防空頭巾をかぶって耐えている。祖父母、両親、姉の6人だった。馬・牛・羊・豚などは馬小屋の中においたまま。かわいい猫と愛犬も放任状態だった。バリバリという音がした。おじいちゃんが「どらどら」といってもう一つの防空壕の入り口から外を見ようと立ち上がった。僕はおじいちゃんのお尻を引っ張って、あぶないと叫んだのを思い出す。
静内の海岸にはソ連の潜水艦が来て、漁船も海岸にいた人も銃撃された。家の田んぼの草取りに行った親戚の人が艦載機に銃撃された。家から1kmほど離れたところに、大きなベニヤ工場があった。それが狙われたという話だったが、照明を落としたり点けたり、防空壕に入ったりでたり、乾いた米を食べて空腹を満たしたり。
終戦らしき放送を父親と並んで聴いたラジオ放送、背の高い占領軍人が道を歩いている姿が今も目にやきついている。チョコレートはいじで食べなかった。2012.8.6記
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小生1940年生まれで、終戦時は静内町に住んでいました。
昨日、ふと静内での機銃掃射の事を思い出し、検索して居たら貴ブログを見つけ出しました。
機銃掃射で目の前の浜で漁船が受け、人々が泣き叫んでいたのを鮮明に覚えています。
この年齢になると昔の事ばかり思い出し、かっての同級生もほとんど鬼籍に入ったせいか連絡も取れません。

現在はミクロネシアに居住しています。

こんばんは、検索からこの記事を見つけ、見させて頂きました。
記事にある北海道 静内とは現在の新ひだか町静内で間違いないですか?
実はいま、戦争の調べごとをしていて僕の地元にも防空壕が無いのかと調べていてちょうどこの記事にたどり着きました。
もしよろしければ、静内のどの辺にあるか、どうやったら見れるのかを教えて頂けないでしょうか?
返信待ってます。
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Author:ホワイトドン
1937年丑歳です。千葉県鎌ケ谷市在住
好きな食べ物は丼物ならなんでも。シチュウ、ハンバーグ。日本蕎麦

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